a pride of Hiroshima!「赤い」三輪トラックからつながる未来と平和のバトン

a Pride of Hiroshima
a Pride of Hiroshima

「広島のことをまだ全然知らないよそ者なんかが被爆の歴史を語ってもいいのかなって。でも、あの状況下から生きた人々の日々の営みを知るにつれ、被爆からの“復興”こそ伝えていくべきだなって思えたとき、今、自分の中にある“伝えたい”気持ちを大事にしたいと思ったんです」

 

仙台から広島へやってきた一人の大学生。彼女の心を揺さぶったのは一冊のパンフレットでした。三輪トラックの色鮮やかな“赤”、“pride”の文字、ここにはどんな想いがあったんだろう。その問いが彼女を突き動かしました。マツダのルーツ、そして戦後復興の力強さに触れながらこれからの平和と真剣に向き合う姿を編集部が追いました。


一人の大学生の心を掴んだパンフレット。1949年、東洋工業を社名としていたマツダが戦後初の新型車を広報するために海外へ向けて発行していた。


1日でも早く、1台でも多く。三輪トラックが担った復興の原動力

進学を機に広島へやってきた山形真里奈(やまがた・まりな)さん。せっかく来たのだからここでしかできないことをやりたいと、大学1年生のときからPride of Hiroshima展でアテンドスタッフとして携わり、被爆からの“復興”のあゆみを伝えています。

仙台出身で叡啓大学2年生の山形真里奈さん。広島在住歴2年目。『Pride of Hiroshima展』アテンドスタッフとして活動しながら、被爆復興のあゆみと平和を問いかける。


『Pride of Hiroshima展』は、広島にゆかりのある企業や地元の大学生、クリエイターが協力し、復興の物語を伝えている展示です。今回山形さんは、三輪トラックのパンフレットを発行していたマツダを訪れ、当時の様子を取材しました。


HIROSHIMA GATE PARK内シミントひろしまC棟2Fにある展示会場の入口。空間・映像・音楽・グラフィックなどは全て広島ゆかりのクリエイターによって制作された。


山形さんから取材依頼を受けて解説を担当したのは、コミュニケーション統括部で社史のアーカイブを担当する温品貴幸(ぬくしな・たかゆき)。当時発行されていたパンフレットの実物と“赤い”三輪トラックと共に、山形さんを迎えました。

コミュニケーション統括部の温品貴幸が本社シュールームで山形さんを迎える。


今回の主人公となる三輪トラックは、1949年、終戦から4年後に発売された当時の最新型「GB型」。新型車といってもいわゆる乗用車ではなく、荷物を運ぶための貨物車です。

温品:

終戦からしばらくは、戦前の企業活動の状態まで戻すのに精一杯で、新型車を出すまでの余力がなかったんです。でもやっと、4年経った1949年に久しぶりの新型車を発表することができました。それがこの三輪トラックGB型なんです。

2023年5月のG7広島サミットに合わせて開催されたPride of Hiroshima期間展示で特別展示された三輪トラックは、パンフレットに合わせて「赤」に塗り直されたもの。山形さんも待望の実車と初対面。

「これから自動車の光明を導く存在になるために」と願いを込めて、太陽神アフラ・マズダーと重ねてMAZDAと表記。

温品:

空襲を受けた地域はどこもそうだと思いますが、まずは崩れたものを撤去し、新しい物資を運ぶことから復興が始まったと思います。現状から前に進むためにも荷物を運搬する車が必要でした。コンパクトで小回りが利き、なるべく安く手軽に入手できる小さなトラック。広島はとくに一面焦土と化してしまったので、他地域以上に運搬車を必要としていたと思います。それに応えるために1日でも早く製造を再開したかった。1台でも多くつくりたかった。でも配給制度のもとではなかなか材料が入らない。かき集めた鉄板材料も質がいいとは決して言えない。当時の人は本当にもどかしかったと思います。

温品の説明に耳を傾け、一所懸命にメモをとる山形さん。


実は、マツダ初の三輪トラックとなったDA型をつくり始めた翌年の1932年頃にはすでに、中国などに対して輸出を行っていました。それが戦時中に途絶えてしまいます。新型車が発売されたタイミングでようやく海外輸出も再開でき、その広報を担ったのがこのパンフレットだったのです。

マツダ本社に二冊だけ残っていた当時のパンフレット。もう一冊を、『Pride of Hiroshima展』にて展示中。現物のパンフレットに触れるのは山形さんも初めて。

表紙をめくると原爆ドームを背景に撮影された三輪トラック。中央に原爆ドームが配置されているメッセージ性の高い構図だ。

なぜ赤い?パンフレットに込められた想いと“pride”

三輪トラックをご存知の読者の中には、あれ?赤色だったけ?と疑問を抱かれたかもしれません。そう、ここに描かれている“赤い”三輪トラックは、実際に量産用として実在したかどうか、定かではないのです。

温品:

マツダの三輪トラックは時代ごとにボディカラーが決まっていて、初期の頃はグリーンなんです。途中から紺色になり、戦後に発売されたGB型も深い青色がスタンダードカラーでした。なぜ、このパンフレットは赤色で描かれているのか。それは海外へ向けたアピール、原爆で被災して悲惨な状況だったけど、新型車を製造できるまで回復しているんだぞ!というプライド。赤色というのはもしかすると広報のために選んだ色だったかもしれないですが、そのときにはやはり、情熱というか前向きな気持ちをこの“赤色”に託したんじゃないか。私はそう思っています。

今回、Pride of Hiroshima展としてこのパンフレットを復元したいと提案された山形さんも“赤い”三輪トラック、そして“Japan”ではなく“Hiroshima”、“pride”という言葉が入った表紙デザインに、惹かれる何かを感じていたようです。


輸出向けのパンフレットだけに書かれた「a pride of Hiroshima!」にはどんな想いが込められていたのだろうか。

山形:

私も、赤色には情熱や挑戦を想起させられます。今でこそマツダって“赤い”イメージがありますが、当時はまだそんなに定着してなかったと思うんです。その中で海外へ向けられた、ここまでできるんだぞ!という熱意。パンフレットを制作するほどまでに、湧き上がる意気込みや海外進出へのチャレンジ精神を感じました。


温品:

当時、赤色の車って日本だとまだまだ少なくて乗用車でもほぼなかったんです。ましてや荷物を運ぶ実用車であれば傷がついても目立たない地味な色が主流でした。そこをあえて赤色にしている。さらには“a pride of Hiroshima”という言葉を入れている。我々は頑張っているんだ!という情熱をたくさんの国に伝えようと企画して、デザインされたのかもしれないですね。


今、自分の中にある「伝えたい」の気持ちを大事にしたい

マツダ本社での取材後『Pride of Hiroshima展』の会場へ場所を移し、改めて今の時代に思う「prideとは」を語った山形さん。対談相手は、総務部地域リレーショングループの植月真一郎(うえつき・しんいちろう)です。植月もまた同展のアテンドスタッフ(企業枠)の一員として復興のあゆみを伝え、学生スタッフや来場者とともにこれからの平和について考えています。


ひろしまゲートパーク『Pride of Hiroshima展』の会場で、山形さんと対談する総務部地域リレーショングループ植月真一郎。

山形:

仙台出身なのでまさか自分が広島へ来るとは思っていなかったのですが、せっかく来たからには広島しかできないことをやりたい。そう思って一番初めに行ったのが平和記念資料館でした。当時、こんなことがあったんだっていう衝撃で。仙台でも戦時中の大空襲はありましたがここまで展示がされている施設はなくて、帰り道はかなり気分が沈んでいました。




そのあと大学の先輩から『Pride of Hiroshima展』を教えていただき、来場したのが昨年(2024年)の6月だったと思います。被害だけじゃなくて復興に向けて当時立ち上がった人たちの力強さも描かれているし、入口のナラティブ(言葉)にも感動しました。これこそ伝えていくべきことだなって。そう思ったとき、広島しかできないことはこれだ!と思いました。

会場の入口に書かれている『Pride of Hiroshima展』のナラティブ。広島の街の復興に向け、明日をより良い日にという想いで一日一日を懸命に前向きに生き、徐々に人々の生活に笑顔が取り戻されていく様子が描かれている。


でも、広島のことをまだ全然知らないのによそ者なんかが被爆の歴史を語ってもいいのかなって、そういう気持ちもありました。広島で生まれ育った友達は小さなころから原爆のことを教わっているし、平和学習も広島では毎年あります。ただ、中にはそれがトラウマになっている子もいて。であれば、外から来たからこそ見えることがあるかもしれない。今、自分の中にある「伝えたい」という気持ちを大事にしてもいいんじゃないかって、思えるようになりました。

植月:

『Pride of Hiroshima展』に来場される方は、県外の人や最近広島へ来ましたっていう人の方が多いかもしれないですね。そういう人たちの方がすごく興味を持っている。それはやっぱり、広島の人は原爆や平和のことを気軽に語ってはいけないという雰囲気を持っているだろうし、あるいは広島が背負わされた十字架になっているのかもしれません。でもね、本当は、80年前の平和と今の平和って対象が違うはずで、相手が違うはずなんです。2025年の今、人類が戦わないといけないのって、環境問題や人口問題、格差問題、ジェンダーなど、幅広い意味での社会課題だと思っています。



当然、これまでのような平和都市ヒロシマとしての役割もありますが、これから目指すべき本当の平和って何だろう?プライドって何だろう?その捉え方も方向性も持ち方もレベルも、それぞれにあって多様なはずだから、それを理解した上で何をメッセージできるのか、考えていきたいですね。

私たち広島のプライドを「a」prideとしてみんなが持っていた

植月:

実は、このパンフレットを発掘したのは、温品さんと私なんです。

山形:

え、そうなんですか⁉

植月:

今から10年くらい前ですかね。当時、マツダが100周年を迎える2020年に向けて、百年史をつくるプロジェクトが立ち上がっていました。まずは資料集めから始めなきゃってことでいろんな部署からカタログやらパンフレットやら集めて、資料を引っ張り出しては整理していました。それで、出てきたのが「a pride of Hiroshima!」と書かれたパンフレット。あれを見たときは衝撃が走りましたね。プライドって何?すごい言葉を使っているなって。


そこから歴史の深堀をはじめました。一体、何があったんだろう?何を「pride」って言ってるんだろう?特定のものを示す「the」という冠詞ではなく「a」って書いているのもすごく不思議で、その意図も気になって。きっと他にもプライドがあったんだろうな。その一つですってことなんだろうな。じゃぁどんなプライドがあったんだろう?これが発行された1949年に…。

山形:

私も「a pride of Hiroshima!」に込められている当時の想いを来場者へ伝えたいと思って、展示品を手に取れるようにできないかなと、パンフレットの復元を提案させてもらっています。なので、今のお話を聞けてすごく嬉しかったです。復元する意味があるなって。何年後、何十年後かは分からないけど、次の世代へ伝える価値があると、今、確信に変わりました。

植月:

私たち広島のプライドをひとり一人の「a」prideとして、マツダはマツダなりのプライドを持って生きていただろうし、他にも、『Pride of Hiroshima展』で一緒に出展しているアンデルセンさん、オタフクソースさん、広島電鉄さん、広島銀行さん、みんなそれぞれにプライドがあったはず。そういう想いで復興をやっていたはずだから、当時の広島の人たちのマインドはみんな一緒だったと思うんです。そこはさっき話したような格差とかの問題じゃなくて。



みんなどん底だったから、一丸となってそれぞれの境遇を受け入れながらやっていた。80年前に奇しくもそれができたわけじゃないですか。だから今を生きる私たちは、今の社会課題にそれぞれが向き合ってみんなで平和にしていく。自分のところから未来が見えた、どんな人にも未来が見えた、復興ってそういうことだと思うんです。

それぞれに自分の未来を思い描ける場所

植月:

本当のところを言うと、今、ジレンマを感じています。さっきの話を、マツダは企業としてどこまでできているんだろうって。「前向きに今日を生きる人の輪を広げる」ってパーパスを掲げているけれど、色んな人がいたときに何ができるのだろうか。もちろん、マツダの根底にある「人」を想い、「人を大切に」企業活動に取り組むという、昔から変わらない「ひと中心」の精神は今もしっかりと受け継がれています。


だけど、クルマづくりとは違うところでもマツダができる社会貢献活動だったり、地域とのつながりなどを通じて社会課題の解決に役立つことをしていきたい。そう思って、2020年のマツダ100周年プロジェクトが終了したときに、当時所属していた広報本部から社会活動を担当する総務部地域リレーショングループに自ら手を挙げて移籍しました。



地域とのつながりを通じて地域社会が抱える課題解決に向けてお役に立てることを少しでも実現できるように、マツダ社員としても個人としても、広島で活動されているみなさんと一緒に意見交換しながら、100年後の広島が元気であるために今の自分にできることをやりたいと思っています。

 

『Pride of Hiroshima展』が過去を知るためだけの場所ではなく、来場された人がそれぞれに未来を思い描ける場所になっていくといいですね。

山形:

今日、植月さんとお話をして、平和ってひとり一人がプライドを持てていることなのかなと思いました。それが今の“「a」pride”かなって。プライドを持っていられなくなっちゃったら、それはもう平和じゃない。自分自身の心が満たされないで誰かのために行動しようなんて思えないし、そんな余裕もないと思うんです。だからこそ私自身がプライドを持つことを忘れないでいたいです。

 


今はまだ自分は何者なんだろうって思う日々で、将来何をしているのか何ができるのか分からないですが、ご縁あって広島へ来て、いつかきっと誰かの役に立てるんじゃないかなっていう未来像が見えたので、何年後になるか分からないけど、私も何かを伝えていける大人になりたいと思います。


マツダが掲げるパーパス『前向きに今日を生きる人の輪を広げる』は、どんなに苦しい時代であっても、それでも人間は前を向いて乗り越えることができるという、広島やマツダという企業の生き様から生まれました。その原点にあるのは、人の力を信じるということ。だからこそ、これからも人々を笑顔にできる商品・サービスの提供にこだわり続け、地域のみなさんと一緒に平和のバトンをつなげていきたいと思います。

最後に山形さんへ「今、プライドを持てていますか?」と尋ねたところ、少しはにかみながらも笑顔で「はい!」と答えてくれました。迷いながら揺らぎながら、それでもプライドを持っていたいと願い、次へつないでいこうとする姿に私たちも勇気をもらいました。“赤い”三輪トラックの復元パンフレットは11月の完成を目指しているそうです。ぜひ『Pride of Hiroshima展』へ足を運んでみてくださいね。



編集後記

 

「今、私たちにとっての平和ってどんなことだと思いますか?」山形さんに投げかけた言葉を自分へ向けたとき、ちゃんと答えられるのだろうかと思いながら取材を終えました。正解が一つではないからこそ、一つになることが難しい時代ですが、自分と同じように他者を大切にすることから私の平和をはじめたいと思います。山形さんの想いが詰まったパンフレットの復元を楽しみにしています。


関連映像: MAZDA HERITAGE

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関連リンク

マツダ100周年サイト|MAZDA VIRTUAL MUSEUM|

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