~ルマン初優勝の裏にモータースポーツの歴史あり!時代を築いたレーシングカーたち~

  • 787Bコレクション

    「マツダでルマンと言えば?あのマシンだけではないのです!」


    マツダを知る人であれば、「ルマン初優勝」と聞いて必ずと言って返ってくるのは「55号車」、「787B」、「レナウンチャージカラー」の3つではないでしょうか。かく言う私もその回答をする一人でしたが、マツダにおけるモータースポーツの歴史をさかのぼってみると、知らない秘話がたくさん隠れていました。今回は2021年6月に登場した「MAZDA 787B 30TH COLLECTION」に登場したちょっとマニアックなモデルカーたちをご紹介していきたいと思います。

  • SIGMA MC74 25号車

    SIGMA MC74 25号車(1974)


    1台目は「日本車として初めてルマン24時間レースで24時間を走りきったマシン」です。マシンの特徴として先ず目に留まるのは「丸目4灯式のライト」。これは24時間レースならでは、夜間走行に備えた非常に重要な装備のひとつです。その他にも、レース中の最高速度向上を狙い、空気抵抗を減らすため、リアウィングを廃止。代わりにリアカウルエンドに垂直フィンを設置する事でハンドリングの安定性を図りました。パワートレインでもシグマオートモーティブ製の車体に12A型のロータリーエンジンを搭載した純国産のパッケージ。 肝心のレースはと言うと、吸気部品のエアファンネルに取り付けたメッシュメタルを吸い込んでしまうトラブルが発生!ピットでエンジンオーバーホールを含む大掛かりな作業を行ったため、長時間のピットストップを強いられ、最後は規定周回数に足らず完走扱いとはなりませんでした。翌年以降、1979年までロータリーエンジン車は参戦しませんでしたので、初完走は1980年までお預けとなっていました。この年からマツダスピードの前身となる「Mazda Auto 東京」からのエントリーとなり、社員ドライバーとしても活躍していた「ミスタールマン」こと寺田陽次郎選手も参戦を続け、1991年の初優勝に繋がる第一歩を踏み出したマシンでした。

  • 252i

    MAZDA RX-7 252i 77号車(1979)


    2台目は初代サバンナRX-7をベースにしたムーンクラフト製のポルシェ935風ボディカウルをまとったIMSA GTO仕様のレーシングカーです。ルマンではマツダスピードの前身となる「Mazda Auto 東京」から2度目の挑戦をするも、マシンの熟成不足と予選アタックドライバーの体調不良が重なり屈辱の予選落ちを経験。ベースとなったサバンナRX-7は、1978年3月30日に「サバンナ:RX-3」の後継モデルとしてデビューしました。当時は、アメリカの「マスキー法(大気汚染防止法)」の影響を受け、厳しくなる排ガス対策で起こるパワーダウンに排気量を大きくする事で対策をするのが一般的でした。そのような中「マツダ」は、独自の「REAPS」と呼ばれる排気ガスを再燃焼させる技術を採用し、排気量を拡大する事なく従来に比べて40%の燃費アップを達成しながら、最高出力:130psという十分なパワーを実現させていました。故にサバンナRX-7は、「未来を担うエンジン」から「ガス食いの極悪燃費車」として評価が地に落ちていたロータリーの復権を賭けた1台で、失敗が許されない状況にあり、レースにおいては当時の市販車の約2倍に当たる253psまで出力アップに成功。13Bロータリーエンジンに換装しても、ライバルマシンはそれの倍以上のパワーを持っており苦戦が予想されてる中、努力を重ねて参戦したものの、予選敗退という屈辱を経験したことが、後の初優勝へと繋がる挑戦心をより強いものにしたのでした。

  • 254

    MAZDA RX-7 254 82号車(1982)


    3台目に登場するRX-7 254は、1979年にルマンへエントリーしたRX-7 252iの進化型マシンでした。ボディを捩らせながら走る姿は、現代の地を這うような姿のGTマシンとは趣が異なりますが、ハンドリングマシンとして乗りやすい仕上がりに。1979年に始まったアメリカのIMSAシリーズにサービス派遣されたマツダの技術者達が全米各地のRX-7ユーザーの生の声を集め、RX-7レースカーのシャシー剛性を補う改善メニューを多数編み出していました。それらの改善策はこのRX-7 254にも盛りこまれており、当時のドライバー、寺田陽次郎選手は「快適なハンドリングのクルマだった」とコメントしています。1979年に味わった予選敗退という悔しさから雪辱を果たすため、丸2年の準備期間を経て1981年に2台のRX-7 253でルマンに戻ってきた「マツダオート東京」チーム。予選通過は果たしたものの完走には至らず、またしても悔し涙。1981年から「マツダスピード」となったマツダオート東京チームは翌年、2台のRX-7 254でルマンに参戦。しかし、2台のうち1台は燃料系トラブルでリタイヤ。残る1台を何とかゴールさせたいと願うも、ギアボックスのトラブルが発生。規定でアッセンブリー交換はでないため、1時間24分に及ぶ分解交換作業を行い、その後もパンクや燃料フィルターの目詰まりなどに悩まされながらも、寺田/従野/モファット選手の乗る82号車が遂に無事完走!そして長時間のピット作業をやり切り、初めてルマン24時間レースを完走に導いたピットクルー達に主催者であるACOより「ベストメカニック賞」が授与されました。後年254はレストアされ、2021年の「オートモビルカウンシル」に展示されました。実際に完走した82号車は1982年のWEC富士6時間でのアクシデントで廃車となった為、ベースとなったのは現存していた「JUN」号になります。この「JUN」号は、1981年のルマンをはじめ、国内耐久レースに出場してたRX-7 253をベースに254にアップデートされた個体で、1982年のルマン終了後は鮮やかなショッキングピンクに色替えもされるなど、変身を複数回重ねてきました。そしてレストアされた姿は1982年のルマン出場時の83号車のカラーリングそのものとなりました。

  • JUN


    ところで、皆さんはマシンのボンネットでひと際目を引く「JUN」というブランドをご存知ですか?これは現在も存在するアパレルブランドです。後日談となりますが、当時を知るメンバー曰く、マツダスピードチームのウェアは当時の大橋監督が以前からお付き合いのあったJUNの社長に直にお願いし専用デザインをおこしてもらい、ウェア提供のスポンサーにもなってもらったそうです。さすがアパレルブランドだけあって、支給されたブルゾン(薄手・厚手)、シャツ、セーター、ベストの5点セットはデザインもクオリティもとてもいいもので、レース活動以降もマツダスピードのメンバーは愛用し続けたそうです。

  • SKYACTIV-G

    MAZDA RX-7 252と254モデルカーならではの楽しみ方


    252と254は当時の規定に沿って市販車の車体に大幅な改造を施し、レース専用に設計・製作されたエンジン等を使用した事から、「フォーミュラカー」のようなレーシングカーに市販車のシルエットだけ残る「シルエットフォーミュラ」と呼ばれていました。 実際に、ベース車となったサバンナRX-7と合わせて3台を横から並べて見るとボンネットの傾斜角度に始まりAピラーやルーフ、Rrウィンドウの形状はそっくりで、それ以外の部分は大胆に変更されている様子がよく分かります。

  • SAVANNA


    違う角度から眺めて見ると、ベース車では大きな特徴であった格納式のヘッドライトは固定式に、252→254ではそのヘッドライトが横型4眼から縦型4眼に変更されている事が分かります。また、ミラーの形状や前後のボディの絞り込み、Rrウィングの形状などが 細かく変更されている事も見て取れます。自由にマシンを並べ好きな角度から眺められるモデルカーならではの楽しみが味わえます。

  • 757

    MAZDA 757 202号車(1987)


    トリを飾る4台目は皆さんもよく見たことのあるフォルムのマシンではないでしょうか。1987年にマツダ初の3ローターエンジン「13G」を搭載したMAZDA 757 202号車、日本車として当時最高の7位に入賞した一台です。このマツダ757の活躍はTVのライブ放送もあって、日本でもかなり話題になりました。新聞や雑誌でも大々的に取り上げられ、ドライバーや監督がTV放送の深夜番組に呼ばれたことなどから、多く注目を集めました。それだけ、栄光のルマンで入賞することの難しさが一般の日本人にも浸透していた証拠ですね。その反響に気を良くしたマツダは、東京・銀座の大型百貨店の外壁に「マツダ757、日本車初のルマン7位入賞」という巨大バナーを掲出。道ゆく人々や日曜日の歩行者天国を楽しむ買い物客がそれを見上げていました。日本車として当時最高の7位入賞を果たした舞台裏もまた苦難の連続でした。まずエンジンですが、前年の1986年からユーノス コスモにも搭載された「20B」の原型、3ローターの「13G」に変更されました。後に初優勝した4ローターエンジンに繋がるマルチローター化の第一歩です。レーシングカーのエンジンとしては非力だった「13B」への対策として、ターボ化が検討されましたが、燃費の面で不利という理由で、ローター数を増やす方法を採りました。但し、それも容易ではなく、駆動力を引き出すエキセントリックシャフト延長時の強度確保や真ん中のローター部をどうやって冷やすか?等、多くの課題解消が必要でした。苦難の末に完成したエンジンは、これまでの2ローターマシンに比べ出力は一気に1.5倍にアップ。この出力アップを活かせるマシンを目指し、事前のテストやレースでの実践テストを積極的に行い、万全を期して1986年のレースに挑みました。しかし、エンジンとギアボックスの間にある「インプットシャフト」が破断しリタイヤ。この悔しさを糧に徹底的な熟成と改良を行い1987年に挑みました。それでも、ワイパーアームの破損やリアサスペンションアームのトラブルによる修理で50分ものタイムロスがありましたが、IMSA GTPクラス優勝はもちろん、当時としては日本車で史上最高の7位でゴールとなりました。速さと信頼性を両立させる為、継続的に進化をさせる事を学んだマツダは翌年から、4ローター化に挑戦し、それから3年後の1991年に悲願のルマン初優勝を遂げるのです。

  • いかがでしたか?1991年のルマン初優勝という華々しいニュースの裏には、今回ご紹介した4台のマシンだけでは語り尽くせない様々なストーリーが数多く隠れています。MAZDA 787B 55号車初優勝までの苦難の道のりに興味が湧いた方は、こちらのルマン優勝30周年メモリアルサイトも覗いてみてください。またこの記事を読んで「ルマンの歴史で活躍したマシンたち」に興味を持たれた方は、是非一度、「マツダコレクション」サイトを訪れてみてください。きっとあなたの心に響く素敵なモデルカーコレクションに出会えることでしょう。

  • ROTARY COUPE

    ●次回予告●


    第3回目は、華麗なスタイルと精密なロータリーエンジンを融合させたREクーペのモデルカーたちをご紹介します。どうぞお楽しみに!