ロードスター

ロードスター(1989年~)

第1章:夢に向かう冒険

第2次世界大戦後の1960年代に、ライトウェイトスポーツカーという手軽に運転を楽しめるクルマが生まれ、黄金期を作った。軽量小型の車体に、ごく普通のセダンに使われているようなエンジンを積み、そのエンジン性能を一杯に引き出しながら、軽快な操縦性を楽しむ──そんなクルマを「ライトウェイトスポーツカー」と呼んで、ヨーロッパの人々は日々の生活のなかで運転を謳歌した。

70年代に入ると、世界最大の規模を持つアメリカ市場で、クルマの安全基準と排ガス規制が厳しさを増し、強化されていった。ライトウェイトスポーツカーの多くが屋根のないオープンカーであり、衝突安全を確保するため、衝撃吸収能力を高めた大きなバンパーを取り付けたり、車体を頑丈に作ったりすることで車両重量は重くなり、また、排ガス規制を達成することと引き換えにエンジンは馬力を落としたりした。軽さが何より売り物の、ライトウェイトスポーツカーにとって受難の時代となった。こうして人々のライトウェイトスポーツカーへの期待も薄れ、ライトウェイトスポーツカーそのものが姿を消していくのであった。

マツダのエンジニアたちの胸に、数の減ってしまった「ライトウェイトスポーツカー」への夢が芽生えだしたのは80年代前半のことであった。初代〈ロードスター〉の開発責任者を務めたエンジニアが、「マツダには、他社とは違う独自の商品が必要だ」と確信し、経営陣を熱心に説いて回ったことにはじまる。

一方、すでに述べたようにライトウェイトスポーツカーの市場は実質上消えたも同然で、果たして市場で受け入れられるのかどうか、定かではなかった。それでもエンジニアの情熱は抑えきることができず、新たな一歩を踏み出すべく、開発部内で企画が着々と進行していったのであった。

駆動方式の選択肢は3つ

企画段階のアイディアは多彩で、駆動方式については、FR(フロントエンジン・リアドライブ)、FF(フロントエンジン・フロントドライブ)、ミッドシップなどが候補に挙がり、車体はオープンか、クーペか…デザインスケッチを前に白熱の論議が展開された。

まず、駆動方式である。60年代に誕生したころのライトウェイトスポーツカーは、エンジンを車体の前に置き、後輪で駆動するFRが主流だった。しかし、70年代以降、乗用車の生産は多くがFFへ移行している。エンジンと駆動方式の組み合わせを考えれば、ライトウェイトスポーツカーといえども、FF駆動方式を流用するのが手っ取り早い。そして現に、エンジンを車体中央に置き、後輪を駆動するミッドシップも小型スポーツカーとして登場していた。これは、FFのエンジン/駆動系統をそのまま流用できるからだ。
開発と製造のコストを考えれば、小型FF車の車体をスポーツカーに換装する考え方や、少なくともエンジンと駆動部分はFF乗用車のものを流用し、車体をミッドシップとするなどが、有利であると考えられた。もちろんそれによって、販売価格を抑えることもでき、ライトウェイトスポーツカーの市場を再び開拓する際の利点となるであろう。

しかし、ライトウェイトスポーツカーにふさわしい、軽快で素直な運転感覚は、FRでなければ得にくいはずだ。ただしFRは、駆動系統を新たに開発しなければならなくなり、そのための投資が必要になるが、エンジニアたちの結論は、ライトウェイトスポーツカーの理想を追求する道を選んだのであった。
オープンカーの車体で、FRの駆動方式を決定したとき、エンジニアたちはこのライトウェイトスポーツカーが目指すべき楽しさを「人馬一体」という言葉で共有化した。以来、「人馬一体」の言葉は、今日に至るまで〈ロードスター〉を象徴するキーワードとして受け継がれている。


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